どうも、さくま(@skmmtt)です。
今日はピポ太郎ならぬ、ピコ太郎のヒットに見る「おもしろくない」の矛先がなんか違うひとたちについて考えてみました。
「おもしろい」「おもしろくない」は人それぞれ
こんな記事を見かけました。「面白くない」と感じた感性に自信を持っていい。その作品は、あなたにとって間違いなく面白くないのだ
人それぞれの感性があるから面白いと感じるもつまらないと感じるも自由なんだぞ。という内容。どう感じるもそれぞれの自由。ごもっともです。
ただ、件のピコ太郎みたいに突如ブレイクした人やモノに対して、必ず無駄にツバを吐きかけるようなヤツが現れます。
いくら自由とはいえ排他的だとやっぱ冷める
「ピコ太郎ってなにがおもしろいのかさっぱり分かんないし、どうせ一発屋で終わるでしょ。おもしろがってるヤツの気が知れない。」
こんなようなこと言う人はすごくいっぱいいるんだけど、こういう人は誰がブレイクしてもわりと同じようなことを言います。もう話し出しから排他的で否定ムード丸出しで、ここから会話がおもしろくなる感じがぜんぜんしません。笑
さっきは「どんな意見を持つのも自由だ」と言ったけど、正直いきなり否定から入ってくると冷めちゃう。「自分と違うものは排除する」 という排他的な考えをぶつけられると、膨らむ話も膨らまない気がします。
他人の「おもしろい」にケチをつける理由
「他人の「面白い」にケチをつけたくなる」という欲求の根底にあるのは、「それを面白いと感じる感性が納得出来ない」という、言ってみれば「自他の感性に対する不信」があるように思うんです。
こういうこと言う人は「自分の考えが正しい」みたいな自尊心の強い人っていう傾向も大いにあると思うけど、個人的には「自分が世間の流行から離れたところにいて、そこに混ざれない感じがすること自体がおもしろくない」って人も多いんじゃないでしょうか。世代的に「若いもんのあいだで流行ってることに割り入ってワイワイするのもしゃらくせえ」的な思考からつい毒づいてしまう、という流れはおじさんとか年配の方にわりと多い傾向だと思います。もちろんおじさんに限らず若い人でもこういう発想の人は結構いるはずです。
盛り上がってる人たちのコミュニティを外から見ているときは「なんだよ、アイツら自分たちだけ盛り上がって!」とか思ってたけど、いざそのコミュニティに入ってみると「なんだよ、めっちゃいい人たちだったわ!」って思い直したりした経験とかありませんか?
輪に入れてないときには嫉妬や敵対心とか負の感情を抱きがちなんだけど、一度その輪に入ると「あれ、思ったより悪いもんじゃないぞ」という心理的な変化。この輪に入れてないとき他人の「おもしろい」にケチをつけたくなっちゃうんじゃないかと思うんです。
多様性を認めるということ
「おもしろくない」「なにがおもしろいのかよく分からない」という意見はそれでいいと思うけど、あまり一方的に否定すると会話の「のりしろ」がなくなっちゃいませんか。「どうせ一発屋で終わるよ。おもしろがってるヤツの気が知れない。」このような一方的な否定は「おもしろくない」の矛先が違うように思えてならないです。ピコ太郎に対してどころか、楽しんでる人たちにすら攻撃的。
いろんな感じ方や捉え方をする人、いろんな意見の人がいるこの世の中では多様性(幅広く、様々な性質のものが存在すること)を認められる器が必要だと思います。
「トマトがおいしくて大好きだから、トマトが嫌いだって言うやつは味覚がおかしい」みたいな理論を振りかざされたら、そりゃ無茶苦茶だろってなりますよね。笑
自分と違う意見や考え方を受け入れなくてもいいから、わざわざつっかかって喧嘩しないで「ふーん、そういう考え方もあるのかぁ」みたいな感じで、少しだけ大人になれたら無駄な争いもちょっとは減るんじゃないかなぁ。なんて思います。
おわりに
ふと思ったことを書こうと思ったらなんだか長くなっちゃいました。結局なにが言いたかったかっていうと。
こんなもリミックスしてます。って言いたかった。笑
PPAPのリミックスはEDM系がかなり多くてクラブとかイベントの現場でもけっこう人気みたいだけど、こういうメタルなリミックスもあるのでそのへんの多様性も認めてください。。
それでは今日はこの辺で。
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